わたしは秋が嫌いだ。
 生命を漲らせていた緑が、見るも儚い赤へと変わる。
 秋風は散る葉とともに、もの悲しさを運んで来る。
 その秋風は、温かみというものが感じられない、冷たい風。
 そう、秋は何もかもが冷たいのだ。
 わたしには冬の冷たさよりも、秋の冷たさの方がこたえる。
 秋は、在るはずの命を奪っていくから。
 冬の冷気は「死」だけれど、秋の冷気は「殺」だから。

 そんなわたしにも、秋という季節の中でただ一つだけ好きなものがあった。
 淀みない澄み切った夜空、その暗幕に穿たれた大きな円。
 太陽の光を受けて、ぼんやりと輝く月が好きだった。
 けれど今はそれさえも嫌いだ。
 秋風が何の罪もない彼女をも奪い、屠っていったから……
 わたしはより完膚無きまでに、秋そのものが嫌いになったのだ。



 雲も少ない澄んだ青天。
 吹き入る秋風は教室の中を
「あんたって奴は!」
 人もまばらな教室に怒声が響く。
 それはわたしの正面に立つ女生徒のものだ。
 男子や他の女子は遠巻きにこの様子を見ている。
 ……微笑みながら。
「なんで納豆カレーの良さが判んないの!?」
 大声張り上げる話題ではないとわたしは思うのだが。
 それにわたしは必要以上に粘るカレーなど食べたくはない。
 そもそもカレー自体に粘りは必要ない。
「……うるさいよ、萩沼」
 目の前で意味も無く怒鳴る萩沼に一言。
 しかしそれは焼け石に水だったようだ。
「何がうるさい! 納豆カレーの何が気に入らないの!? カレーショップのメニューにもあるんだから良さを認めなさい!」
 そんな息切れしてまで熱弁するべきことなのだろうか。
 あと、認める認めないの問題でもないと思う。
「えぇい及川! あたしと闘え!」
 ……なぜそうなるのだろうか?
 いつもの事ながら、なんだか萩沼がわからなくなってきた。
「萩沼……」
 わたしは深いため息をついた。

「ねぇ、やめようよ」
 やや気の弱そうな、けれどもはっきりとした声が割って入る。
「喧嘩は良くないよ……」
 彼女は真摯に、わたし達に訴えかける。
「くっ……樫原さんか……及川! 明日こそは必ず!」
 萩沼はびしっとこちらを指差してどこかへと去っていった。
 実は、一日数回ほどこの光景がある。
 一方的に、主に納豆カレーに関して喋り散らして、どこかへと去っていく萩沼。
 それを毎度止めてくれるのがこの樫原さんだ。
 止めてくれるのは嬉しいけど……これは喧嘩じゃない。
 喧嘩未満の何かだ。


 ようやく放課となった。
 最後のホームルームは強烈だった。
 それは進路という大切な話であるはずなのだけれど、催眠効果があるのかクラスメイトは次々と眠りに堕ちていった。
 わたしも例外ではなく、最初と最後の方の記憶しかない。
 恐らく、ちゃんと起きて聞いていたのは樫原さんくらいではないだろうか。
 逆に堂々と寝ていたのは、萩沼くらいのものだと思う。いびきすら聞こえた気がする。
「るかちゃん、一緒に帰ろ?」
「るかちゃんはやめて……」
 わたしの名前は確かに及川瑠華だ。
 自己紹介したとき以来、樫原さんはどうやら「るか」と言う響きが気に入ったらしい。
 それは良いのだけれど、ちゃん付けは何だか照れるのでできればやめてほしい……
 今までそう呼ばれたことは無かったし、自分でも「ちゃん」というイメージではないと思う。


 ささやかに吹く秋風。
 それは樹々と葉をそよがせ、わたし達の髪を撫でる。
 ありふれた秋の夕暮れは、ただ穏やかだった。
「るかちゃんは何か決めてる? 進路」
「わたしはまだ未定かな……」
 わたしは目標などが曖昧なまま、ただ何となく過ごしてしまっている。
 それどころか最近無感動になってしまったような気さえする。
「樫原さんは?」
 聞くと樫原さんは満面の笑みを浮かべた。
「私ね、ピアノをやってるから……だから、このままピアノを弾いていけたら良いなって思ってるんだ」
 ピアノをやってる、とは謙虚な言い方だ。
 樫原さんはかなり大規模なコンクールで優勝したことがあるほどの腕の持ち主である事を、わたしは知っている。
 新聞かテレビか何かで取り上げられていたし、樫原さん自身がはにかみながら話してくれたのを覚えている。
 今は亡き樫原さんのお母様が、樫原さんが小さい頃に弾き方を教えてくれたのだという。
「叶うと良いね」
「うん!」
 樫原さんはもう一度、花開いたような眩しい笑顔を見せた。


「明日こそは納豆カレーを!」
 昨日に続いてお決まりの台詞を吐き、萩沼はまたどこかへと去っていった。
 今日、この放課後の時間に限ってはどこへ行ったか判るけれど。
 それにしてもそんなに美味しいのだろうか? 納豆カレー……
「るかちゃん、一緒に帰ろ?」
 これも聞き慣れつつある台詞。
 すぐにでも肯いて帰りたかったが、今日はそうはいかなかった。
「ごめん、樫原さん。今日は学校祭の準備があって……」
 そう。秋のこの時期となると少しずつ、少しずつではあるが学校は活気付いてくる。
 クラス毎に二名ずつの実行委員に、わたしは選ばれていた。
 何の因果か、あの萩沼も選ばれている。
「そっか……じゃあ、るかちゃん頑張ってね」
 樫原さんには悪いけど…仕方の無い事ではある。
 この学校のこの時期部活は全面停止、用のない生徒は即刻帰宅を命じられている。
 そして今動いているのは、まだ学校祭実行委員だけなのだ。
「うん、また明日。樫原さん」
「ばいばい」
 掌を左右に振る、軽い別れの挨拶。
 樫原さんは帰途についた。



 萩沼が今日の話し合いが終わった旨を先生に伝えに行った。
 もう少し経てば先生もやってきて、解散となるだろう。
「……ふぅ。皆張り切ってるなぁ」
 などと冷めた感想を呟いてみるも、わたしもかなり乗り気だ。
 教室でざわめく生徒達の喧騒の彼方、どこかからサイレンが聞こえた。
 またどこかで事故でもあったのだろうか。そう片隅で思いながら今日の終わりを静かに待つ。

 いつもと比べて長い時間が経った後、萩沼と先生が教室の扉を開けた。
「皆、もう帰っていい。及川は俺と萩沼と一緒に来い。解散!」
 それはどうやら急いているような様子で、その場にいる全員に有無を言わせぬ気迫があった。

 廊下を経て、玄関へと着いた。
「先生、一体何が……」
 先生は無言で萩沼の方を見た。
 その視線を追うと、あの萩沼が涙目になっていた。
 これはきっと、ただごとじゃない。
 わたしは堅く口を結び、先生の後について車に乗った。

 煌めく夕陽の中、紅葉を運ぶ秋風を感じながら道路を往く。
 やがて停まった車の先に見えた、白い大きな建物。
 そびえ立つという表現が相応しい、独特の雰囲気を漂わせる場所。
――そこは、病院だった。

 言葉を失った。
 今までは正直陳腐な表現だと思っていたけれど、他に形容しうる言葉が無い。
 受付を通り、院内を駆けて行った先に彼女はいた。
 ……血まみれとなった、樫原さんが。
 わたしはその場に崩れ落ちた。
 遠くで様々な声が聞こえたが、咀嚼する気力は無かった。
 また明日来ようと先生に言い聞かせられながら、半ば引きずられるようにして病院を出た。


 なぜ樫原さんが? 彼女は何もしていないのに? 何があったの?
 わたしが一緒に帰っていれば回避できた運命なのだろうか?
 そんな漠然とした疑問や後悔が押し寄せる。
 自問し、自責し、やがて眠れぬ夜は過ぎて朝陽が昇りつつあった。


 先生の話によると、車とぶつかったのだと言う。
 ダメージは左半身に集中、運転手は慰謝料の支払いと医療費の全額負担を申し出ているらしい
 さすがの萩沼も、今日は元気が無い。
 あんな事があっては納豆カレーどうこうは言えないはずだ。
 昨日の出来事は、かなり奥深くまで突き刺さっている事だろう。
 それはわたしも同じ事だった。
 わたしはいつも以上に静かに、ただ放課のときを待つ。

 そして放課後、わたしは一番に教室を出、病院へと向かった。
 気にならないはずがない。喩え残酷な結果が待っていようとも、わたしは樫原さんに会おうと思った。
 太陽は覆い隠され、寒々とした秋風の吹く中、わたしは走った。


「あ、るかちゃん。おはよー。こんにちはかな?」
 二階、病院の個室には樫原さんがいた。
 パジャマの上に暖かそうなカーディガンを羽織って、窓の外を眺めていた。
 わたしの存在に気付くなり、昨日までと何ら変わらない笑顔をくれた。
「樫原さん、大丈夫……?」
 戸を後ろ手に閉めて、問い掛ける。
 なんだか気が動転してしまって、月並みな言葉しか浮かばない。
「手がなんだか上手く動かないけど、大丈夫だよ」
 気を遣わせてしまっているようだ。辛いのは樫原さん自身のはずなのに、気丈に笑っているから。

「樫原菜都子さんの御学友の、及川瑠華さんですか?」
 不意にわたしの後ろの戸が開き、医師と思しき人物が訊ねた。
「はい、そうですが」
「少し来て頂けますか?」
「良いですけど……」
 わたしに何の話があるというのだろう?
 そうは思ったがただならぬ雰囲気を感じたので仕舞って置く。
「じゃあ樫原さん、また後で」
「うん。行ってらっしゃい、るかちゃん」
 わたしと医師は、樫原さんの病室を後にした。


 開け放された窓。ブラインドの向こうから、ほんの少しの光と秋風が漏れてくる。
「突然すみません。菜都子さんのお父様から、もしも見舞いに来たら是非あなたにもと」
 何だろう。樫原さんのお父様が、私にも、と判断した話とは。
 そして――寒いと言うよりは涼しげな医師の自室で、わたしは衝撃を受けた。
「え……?」
「もう、菜都子さんの左手は自由に動きません」
 極めて平静といった声で、医師は淡々と告げた。
 しかしその表情は苦悶に満ちている。
「我々も手は尽くしましたが……ここへ来た時にはもう……」
「そんな!」
 よりによって、手が。
「他はおそらく何不自由なく動かせますが……左手はもう元のようには動かせないでしょう」
「そんな……」
「現代の医療科学では、どんな方法を用いても、何があろうと……奇跡は起こりません」
 そんな……それじゃあ樫原さんはピアノを……
「……菜都子さんを守ってあげてください」
 そうか……だからわたしにもこの事を。
 もしかしたら、大人の人だけでは難しいのかもしれない。
 一呼吸置いて、医師は深く礼をした。



 わたしは呆然と樫原さんの病室の前に立っていた。
 わたしはいつもと変わらず樫原さんと接する事ができるだろうか?
 これは樫原さんに告げて良いことなのだろうか?
 良い訳がない。簡単に受け入れることなどできない。今の状態ならばなおさらだ。
 心は痛むけれど、ここは隠し通さなければならないと思った。

「何だった? るかちゃん」
 樫原さんの笑顔が心に刺さる。
「あ、えーと……」
「私の指のこと?」
「え……?」
 思いがけぬ言葉。
 わたしは不意を突かれて固まってしまった。
「なぜ……」
「わかるよ……私の手だもん。きっともう動かないんじゃないかなぁ、って」
 なぜ……こうも鋭いのか。沈黙がその場を支配する。
 悠久の時が流れたかのような静寂。ただ白い空間がここにある。
「気にしなくていいよ、るかちゃん。私の事だから」
「………」
 気にしない。
 そんなことが出来るはずはない……
 すっかり口を閉ざしたわたしに気を遣ってくれたのか、樫原さんが呟いた。
「……りんご食べたいなぁ」
 その言葉を聞いて、わたしの顔にも微笑みが浮かぶ。
 許可を貰い、樫原さんを補助しながら病院近くのスーパーへと向かう。
 そこでわたし達は真っ赤なりんごと果物ナイフを、一つずつ買った。


「あ」
「どうしたの? 樫原さん」
 病室に戻ってきた所で、樫原さんは何かに気付いたように呟いた。
「外に出たんだから、あの店のオルゴール買っておけば良かったなぁ……」
 聞くと、事故に遭う前に見つけ、聴いてみたら気に入ったのだと言う。
「じゃあもう一回行ってくるね」
 一応動けるとは言え、樫原さんをあまり疲れさせてはいけない。
「そんな……ううん。ありがとう、るかちゃん。じゃあ私は皮を剥いて待ってるね」
 そのオルゴールを見つけたのは、スーパーの数軒隣の店らしい。
 駆け足で往く事を考えても、そう時間はかからないだろう。



 樫原さんの言うとおり、かなり特徴がある形だ。
 このオルゴールで間違いはない……はず。
 二階への階段を上りながら、ほんの少し考える。
 なぜ樫原さんはあんなにも目映い笑顔を作れるのだろう?
 わたしがもし同じ境遇だったら、耐えられそうにない。
 ましてや笑顔など……作ろうとも思えないと思う。
 ふと。かん、からん、という金属音が二階の廊下に響く。
 音が鳴った場所は、どうやら樫原さんの病室のようだった。
 こん、こんとノックをして戸を開く。
「どうしたの? 樫原さ……」
 思わず絶句する。
 そこにはあった。
 それは真っ赤な。
 真っ赤な、真っ赤な、血が。
 りんごではなく血が、真っ白だった病室の床を赤く染めている。
 その真紅の華の中心で樫原さんが、血の気の失せた樫原さんが、倒れている。
 手首から滲み出る朱色は、未だ緩やかに流れ続ける。
 樫原さんが伸ばした右手の、その先には果物ナイフが転がっていた。
 その青白い表情は、どこか安らかなものさえ感じさせる。
 気が、遠くなった。
 しかし、濃密な匂いがわたしを引き戻す。
 なるべく冷静に、行動を起こす。
 揺り動かしてはいけない。きっと、まずは他の人を呼ぶべき。
 わたしはナースコールのスイッチを押した。
 ナイフを拾ってシーツを切り、止血する。
 そして、早く人が来るのを祈りながら、樫原さんに呼びかけ続けた……



 樫原さんは一命をとりとめ、なんとか意識も戻った。
 病室を清掃するために、樫原さんの病室は五階の空いている個室に移った。
 その部屋に入り窓の外を見ると、陽はもう沈みかけていた。
「ねぇるかちゃん」
「? なに?」
「なぜ私に構うの?」
 突然の質問。
「私を放っておいてくれれば、私は死ねたのに」
「!」
「私はもう嫌なのに」
 いつもの樫原さんからは考えられない、感情を露にした怒声。
「私の左手はもう動かない。ピアノを弾けない。夢は叶わない!」
「樫原さん、生きていれば……」
「生きていれば何かあるの? 何があるの!? もう……」
 感情の、奔流……
 夢を、運命に拒絶された樫原さん。
 それは恐らく、直面しなければ判らない辛さだろう。
 そう、きっと……世界の有象無象を見えなくさせるほどに。
「もう、疲れたよ……ごめん、るかちゃん。今日は帰って……」
 わたしには、樫原さんに伝えられる言葉がなかった。
 そしてただ、病室の外へと足を運ぶ。
 今日この後訪れるであろう樫原さんのお父様が、樫原さんを癒す事を願いながら。
 自分の無力さを感じ、自分が憎らしく思えた。


 もはや、学校に行ったという記憶すらない。
 もしかしたら学校には行っていないのかも知れない。
 わたしは、気付いたら病院にいた。
 昨日の事がずっと頭の中に残って、何も考えていなかった。
 ただ当然のように樫原さんの新しい病室へ行き、一瞬逡巡して戸を開ける。
「樫原さん!」
 中には樫原さんと、樫原さんのお父様がいた。
 樫原さんは病院のものらしい白い服に身を包んでいた。
 お父様はわたしを見ると優しく微笑み頷いて、病室から出て行った。
 ……わたしの無力さゆえの、昨日の惨事だったのに。
「るかちゃん、昨日はごめん。るかちゃんは悪い事何もしてないよね」
「樫原さん……」
 わたしが謝ろうと思ったのに、こう言われては返す言葉は無い。
「るかちゃん、このオルゴールまだ聴いてなかったよね?」
「え? あ、うん」
「とても良い曲だよ。目を瞑って、聴いてみて」
 樫原さんは花のような笑みを浮かべた。

 目を瞑る。樫原さんがオルゴールのネジを巻く音が聴こえる。
 ……嬉しげで、躍動感のあるメロディ。けれどどこか、悲愴的で空虚。
 楽しいけれど哀しい。空しいけれど満たされている。
 そんな矛盾に溢れた音色が、病室に響く。
「私ね、もう一つ夢があったんだ」
「どんな夢?」
「小さい頃の夢。私、空が大好きなんだ。だから鳥になって空を飛びたいと思ってた」
「素敵な夢だね」
「でしょ? ふふっ、」

「それが、叶えられる最後の夢」

 あまりの唐突な言葉に、わたしは混乱した。
 そして、その言葉から連想することに、わたしは愕然とする。
 まさか。そんなことが。
「樫原さん!?」
 目を開くと、樫原さんは窓辺に立っていた。
 秋にしては強い陽光が樫原さんの体を包んでいる。
 そこだけ隔絶されたかのような美しい光景。けれど、見とれている暇はない。
 わたしは駆け出した。
 そして、危惧していた事が起こった。
「るかちゃん、ごめんね」
 樫原さんはわたしの方を向いたまま後退し……落ちた。
 わたしが窓から伸ばした手は樫原さんには届かず、宙を掴む。
 樫原さんは天を仰ぎながら両手を広げ、この状況と不釣合いなほどの笑みを浮かべながら落ちていった。
 わたしを嘲笑うかのように、秋風が吹きつける。それに応じたかのように、オルゴールの音が停まる。
――今、一羽の白い鳥が、地面に堕ちた。



「あれから、二年か……」
 わたしはそう言って、透明な液体を一口すする。
 ……苦い。そして辛い。
 一応、時々口にする事はあった。
 けれど、この酒というものにはどうも慣れる事ができない。
「そうね……」
 成人式の後の、ありがちな屋台での三次会。
 ……わたしと萩沼だけの。
 怜悧な秋風を身に感じながら、呑めぬ酒を酌み交わす。
「ねぇ、萩沼」
「うん?」
 一瞬逡巡し。
 ゆっくりと、懐かしくも悲痛な想いを込めて。
「わたし達、本当はもっと樫原さんに何かしてあげられたのかな……」
 その言葉は、重い響きとなってわたしと萩沼に響く。
 萩沼は静かに目を瞑り、グラスを傾けた。
 あの出来事はあまりにも冷たくわたし達に降り注いだ。
 それは二年間抱いてきた、悔恨の記憶。
 今この身に襲いくる秋風は体よりも心を痛々しく突き刺す。


 そう、二年。
 18歳の秋、樫原さんは死んだ。
 事故、自殺未遂、自殺……大きな不幸だ。
 その不幸は、もしかしたら回避できたものだったのかもしれない。
 もし、わたしが何らかの理由で学校祭の話し合いに参加していなかったら。
 それによって、わたしが樫原さんと一緒に帰ることができたのなら。
 少しは救いのある未来が待っていたのかもしれない。
 せめて、わたしがもっと樫原さんの力になってあげられたのなら……
 わたしの手が届いていたのなら……
 樫原さんのお父様はそんなわたしを咎めるどころか……あまつさえ慰めてくれた。
 でも、わたしはわたしを赦す事はできない。
 わたしはそんな事を二年間ずっと後悔して、考え続けてきた。
 萩沼にしても同じはずだ。
 樫原さんが死ぬなんて……死んだなんて、冗談に思えるときがあったはず。
 現実を認めたくないと、思ったときがあったはず……


「……さっきさ。何かしてあげられたのか、とか言ってたじゃない?」
 萩沼の唐突な呟きに少し驚いたけど黙って頷き、次の句を促す。
「樫原さんもあれはあれで良かったと思うよ? あたしは」
「なっ……」
 あれで良かった? あの残酷な結末が?
「萩沼……どうしてそんな事が!」
「あー頭に響く・・・ まぁ落ち着いて聞きなって」
 萩沼はこめかみを押さえながら話を続けた。
「たぶん、笑顔だったなら樫原さんはそれで満足だったんじゃないかな。抱えてしまった苦しみから逃れるために死を選んだ。ただそれだけの事だとあたしは思う」
「それだけって……そんな、無責任な……!」
「じゃあ」
 わたしの言葉を遮り、萩沼は言った。
「皆が幸せだと思う? 死ぬ事は不幸だと思う? 死ぬ事よりも辛い事がずっとまとわりつくとしても?」
「っ……」
「上手くは言えないけど、そういうことだよ。今あたし達が出来るのは冥福を祈る事だけ」
 認めたくはない。
 けれどそれが今目の前にある現実……逃れられない現実だ。
 本当の心や気持ちは本人しか理解できないし、本人ですら理解できない時もある。
 喩え幸せでも不幸でも、樫原さんが死んでしまったのは変えることのできない現実。
 変えられたとしても、背を向けて歩いていては辿り着けない。
 二年間抱えてきた氷が、だんだんと溶けていくのを感じた。
 これじゃあ、あの時と立場が逆だな……わたしの方が熱くなりすぎてた。
 そう思うとふと口許が緩んだ。
「萩沼」
「ん?」
 樫原さん、ずっと忘れないよ。萩沼、これからもよろしく。
「ありがとう」
 わたしはまっすぐに、言霊を放った。
 萩沼は照れくさそうに頭を掻き、顔を綻ばせて言った。
「納豆カレー、食べに行こう?」
 突然の提案に苦笑しながら、わたしはそれに肯く。
 ……萩沼の笑顔に、樫原さんの花咲く笑顔が重なって見えた。



 わたしは秋が嫌いだ。
 生命を漲らせていた人が、見るも儚い骸へと変わった。
 秋風は散る葉とともに、残酷なほどの後悔を運んで来る。
 その秋風は、温かみというものが感じられない、冷たい風。
 二年前、秋風が彼女を奪っていったけれど。
 今、わたしには支えがあるから。
 樫原さんと萩沼という二人の親友がいるから。
 わたしは秋を好きになれそうだ。
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○後書き
なんか色々直して、後書きに書くようなことをすっかり……
大きく変わったのは納豆カレーのあり方か。
最終的に、最後の場面に本当に使うことになるとは。
気の迷いって恐ろしいね!

おかしかった所もむりやりにではありますが修正……
って一部の人しかその「おかしかった所」わからないか。


◇自主没
・「ほらぁ、皮が綺麗に剥けたぁ……」
言わずもがな、リストカットのところに。
「皮を剥いて待ってる」から係ってるんだよね。なんか……すごく怖いぞ。
しかも地の文に「樫原さんは恍惚の表情を浮かべていた。」とか書きそうになってました。
だんだん樫原さんのキャラが壊れていってるよ……!
別の話になっちゃうよ!終いには伝奇ものに(ぇ

・「見て? るかちゃん。私、鳥になる……」
飛び降り自殺のところ。自殺かどうかは置いとこう。
もしかしたら、鳥になれたのかもしれないから。
その辺抜きにして、なんか怖いっていうかヤヴァイ匂いがしたので。

・飛び降りの描写。
すごく詳細にする予定でした。
リストカットのところですら想像以上にキてるなぁと思ったのに。
この状態でそこの描写したらもうヤヴァイんじゃないかと。
「肉塊が飛び散り」とか「ひしゃげた顔が」とか。
どう見てもNGです。本当に(ry
グロ要素入れてどうするw


追記:060925
納豆カレー、美味しいですよ?
納豆もカレーも大丈夫な方はお試しあれ。
両方好きならなおよし。
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