さざ波の和音。ざぁっと、寄せては引く静穏。けれどもそれは、不安や胸騒ぎにも似た騒音。


「わからない……」
 欲のままに在るべき獣が、理性という縄で縛られている。それが人という存在を表現した場合の、一つのかたち。
「なぜ……」
 禁忌は時に人を狂わせる。凶行を抑えるための戒律が、忌むべき凶行を促す。
 そして多くの場合、抑制されていたからこそ、欲は強く体を衝き動かし、狂う。
 決壊したダム。割れた風船。強く引かれた弓、射られた矢。
「私が……?」
 縛られ続ける欲にこそ、狂気が息を潜めている。
 抑え続ける欲にこそ、恐怖が強く秘められている。


 僕は見惚れた。
 瞼の裏に浮かぶ、僕の知る彼女。
 紅に染まった頬。優しげな瞳。
 その口許は笑みを浮かべていた。

 僕は見ていた。
 目の前に立つ、僕の知らない彼女。
 血で紅に染まった頬。優しげな瞳。
 その口許は笑みに歪んでいた。


 知らない。私は知らない。私は何もしていない。
 私はただ、あの場にいただけだ。
 私はただ、彼と話をしていただけだ。
 手を、血に染めて?
 止まっていた時間が流れ出す。

 私は何をしていたのだろうか。
 あの時……彼が倒れる瞬間。
 転がっていた刃物。
 緋を塗られた20センチの銀色。
 眩む視界。
 染まる世界。
 滲む朱。
 声。
 光。
 闇。
 私?
「わからない……」
 私が全ての始まり?
「なぜ……」
 この惨劇の主演?
「私が……?」
 ワタシが現れた。
 私が気付かなかったワタシが。
 ワタシが……

 いつも見ていた光景へと。
 いつも見ている風景から。
 波の音、ささやかな光、足と床と壁と天井と腕と。
 痛みと怖れと嘆きと痛みと憤りと。
 怒りと悲しみと望みと夢と。
 耐える耐えるされど耐え切れぬ苦しみと。
 苦痛。忍耐。逃避。幻想。現実。限界。
 いつも荒々しく私を嬲る、父の温もり。


 知らない。私は知らない。私は何もしていない。
 私はただ、あの場にいただけだ。
 ワタシはただ、彼を殺していただけだ。
「ごめんね……」
 私は彼の為に、涙を流した。私は冷たい彼に口付けた。
 ワタシは彼の為に、私を笑った。ワタシは私に突き刺した。
 交じり合う紅。くずおれて折り重なる体。
 ああ……次に会う時には、歪みのない温もりを交わせたなら――


 海沿いの小屋で、少年と少女の遺体が発見されました。
 遺体には刃物が刺さった形跡があり、近くでは刃渡り約20センチの刃物が見つかっています。
 警察では現場に残った形跡から、少女が心中を図ったものと見て捜査を進めています。


○ぼやき
アリプロを聴く者にとって「禁じられた遊び」といったら、えろす。
えろすから逃れるためにはこれしか無かったんだ……!
「トカゲのしっぽ」の時に書いてしまったものを、後味が悪くなるように加筆。
狂気が絡むと妙に筆が進むのはなんでだろうね。
『大雑把な桃源郷。』トップへ