今ならいける、いいやダメだ、今はその時じゃない。
 決意と躊躇と挫折を繰り返して、くすぶる火はより勢いを増す。
 玉の緒よ、絶えなば絶えね、永らえば。忍ぶる事の、弱りもぞする。
 内へと秘めた感情は秘めた分だけ熱を帯びた。
 ならば自分にも先人のように、秘め切れなくなる時が来るのだろうか。
 これは脈々と続く、迷宮めいたスパイラル。


「はあーあ……」
「なに気の抜けた声出してるのよ長野」
 倉持が鋭利に切り込んでくる。わたしの立場になれば溜息吐きたくもなるって……
 机に置いていた緑茶のペットボトルを開け、飲み口に唇を当てる。
「ま、判るけどね。金谷の事でしょう?」
 口に含みかけた緑茶を、危うく噴き出しそうになる。
 いたたたた、緑茶が鼻に来た気がするっ!
「なっ、な……倉持お前ー!」
 この鼻の痛みをどうしてくれる!
「あたし、前に聞いたじゃん。それに訊く前から判ってた」
「……はあ」
 そうだよね……倉持に関しては何の不思議もないよ。鼻の事も忘れよう。
 聞く前から判ってたってのが気になるけど、たぶん思ってる事が出やすいということだろう。
 それにしたって……、いや、それならそれで。
「金谷は何で気付いてくれないのかな……」
 ずっと好きだったんだけど、わたし達はずっと小さい頃のまま。
 やっぱり伝えないと伝わらない、のかなぁ……
「ああ。長野は馬鹿正直でわかりやすいけど、金谷はそれを上回る鈍感だから」
 ああ……やっぱりその通りなんだ。わたしはわかりやすくて金谷には伝わってない。
「……わたしって、そんなにわかりやすいの?」
「たぶん、少なくともこの教室であんたの恋心に気付いてないのは金谷くらいね」
 そ、そんなにわかりやすいの!? わたしは顔がなんだか熱くなってきた。
「苦労するわね」
「……はあ……」
 実際以上に遠く感じる金谷を見つめながら、わたしはまた一つ溜息を吐いた。


 ざわめく教室の中で、俺はあくびを一つした。昼飯も食べたし、まあゆっくりとしよう。
 同じく食べ終わった白沢は、おもむろに瓶を取り出し俺の机に置いた。
 そしてこれまたおもむろに取り出したソムリエナイフを握り、瓶のコルクを抜く。
 ……つーか何で学校にワイン持ってきてるのお前?
「ここはフランスじゃない。未成年の飲酒はNGだぞ」
「甘いぞ、16歳から飲酒可だ。よって全く問題はない」
「だからそれはフランスだ。ここは日本だ」
 何したり顔して注いでんだよ。そのグラス二つもどこから出した。
 ソムリエナイフはともかく瓶も同様だ。何気に良く冷えてそうじゃないかそれ。
「まあ落ち着け、金谷。お前も一つどうだ?」
「どうだ、ってなあ……」
 そうこうしているうちにグラスに注がれる赤紫色の鮮やかな液体。
 光を透過してもなお深みのあるそれは、何とも悩ましい香気を放っていた。
 ……それに、アルコールに対する興味が拭いきれなかった。
 俺はグラスに口を付け、少し傾ける。実に良く冷えている。
「どうだ、我が愛飲のノンアルコールワインは」
 ……それって単純にブドウジュースじゃないのか……?

「金谷くん!」
 ノンアルコールワイン(ブドウジュースと断定)を飲む俺を呼ぶ声。
 ……クジシマだっけか。どう書くか忘れたけど、変わった字だった気がする。
「えーと、その、あの……クジシマです。放課後はお時間よろしいでしょうか……?」
 何やら早口でまくし立てるクジシマ。とりあえず落ち着け。
「ああ、別に構わないけど」
「本当ですか!? じゃ、じゃあ放課後に体育館裏でお願いします、それでは!」
 駆け足で去って行った。突然来て突然去って、すさまじい勢いだな……
「何だあの子……?」
 体育館裏? 焼きを入れるとかそういうアレか……?
「よかったな、金谷」
「?」
 白沢の言葉の意図が、良くわからなかった。まあ、似非ワイン狂の言うことはあまり深く考えない事にする。


 金谷の元に嵐のような勢いの女の子が、突然来て突然去って行った。
「あれは……隣のクラスのクジシマさん? なんて言ったのかな」
「放課後に体育館裏って言ってたわ」
「地獄耳だね、倉持……」
 わたしが座る前の窓際一番後ろの席と金谷の教卓前の席では結構な隔たりがある。
 それに何よりクジシマさんの声はそんなに大きくなかったので、会話を聞き取るには相当の聴力が必要だった。
「長野。行くわよ、放課後」
「え? だってあれは金谷への用……」
「遠くから見るの、良いから!」
 なぜか語気を強める倉持を不思議に思いながら、わたしはとりあえずうなずいた。

 わたし達は掃除を終えて、金谷が教室から出るのを見届けた。
 少し時間を置き、鉢合わせないように体育館裏へと向かった。
 この学校の周りには木々がたくさん植えられており、体育館裏も例外ではない。
 だから木々に沿って移動していけばスムーズにベストポジションに着ける。
 ……と、倉持はそう主張していた。
 木々の間を縫い行き着いてみると、金谷とクジシマさんがそこにいた。
 遠い、とは言えないがそれなりの距離があるために内容はわからないが、確かに何かを話している様子だ。
 クジシマさんのそれは恥じらいと決意の入り交じったような表情で……ああ、わたしでもわかった。クジシマさんは間違いなく恋をしていて、金谷に。
 ――告白、しているんだ。
 瞬間、衝動がわたしを捉えた。わたしは駆けてその場から抜け出す。
「長野。長野っ……!」
 小声で呼ぶ倉持を置き去りにしながら、ただ走った。


「そんなわけで、俺は付き合えねえわ」
 クジシマは目に見えて意気消沈しながら、それでも気丈そうに笑った。
「そうですよね……あはは。失礼しました」
 一礼してくるりと反転。小さな嵐は幾分風の勢いを欠いていた。
「なんだったんだろうなぁ……」
 嵐の後の静けさ、とはこういうことなのだろう。
 ざわざわと揺れる葉の、擦れる音。それがいやに耳につく静けさ。
 午後の陽射しはすっかり赤みを増して、既に明日に沈もうとしていた。
「黄昏の葡萄酒。黄昏の語源は“誰そ彼”であるという。なればこそ我はこの杯を取ろう。陽の朱に透ける葡萄の紅……なかなか良い取り合わせになった」
「おわっ……いきなり湧いてくんな白沢」
 すぐ横にはグラス越しに……いや、黄金杯越しにブドウジュースを掲げている白沢が居た。お前は色々と間違えている。
 そんな俺の小さな叫びなど意に介さず、白沢は饒舌な口をまた開いた。
「さあ、金谷。なぜ断った?」
「ん……なんでだろうな」
 クジシマは恐らく、可愛い方だと思う。他にも特に気にかかるところは無い。
 はっきりとした理由はないのだが、断ってしまった。
「まあ言わずとも良い。聞け、金谷……ワインは女だ」
「はあ?」
「熟成していくにつれ増す香気、味の深み。無垢の白に色香の赤に多面の薔薇。一言にワインといっても様々な味わいがある」
 正直、普段の様子からいくと内容の真偽すら胡散臭い。俺はワインには詳しくないので確かめる術は無い。
 それに……お前が持ってるそれはブドウジュースだろ?
「ともかく嵐は去り、雲は巻き上げられた。そこには太陽が覗いており、紅い果実が透けて見える。……なあ、倉持?」
 ………………倉持?
「お見通しか。やるね白沢」
 倉持ってお前か。うちのクラスの倉持かよ!
「あたし一人なら、あんたらには気付かれないだろうと踏んでたんだけどね」
「気付かないさ。そこに突っ立っている鈍感は何一つな」
 俺、話題に置いていかれてるな。おーい何通じ合ってるんですかあなた方。
「わからんか金谷? この倉持こそが、お前の断った理由を示すのだがな。杯がワインを引き立てる。ワインの香気は杯に注がれてこそなのだ」
 そう言うと白沢は黄金杯のブドウジュースに口をつけた。
 倉持は俺に向かって溜息を一つ吐き、苦笑した。
 俺はというと、出そうで出ないその理由にやきもきしたままだった。

 夕食を食べ終え寝転んでからも、ずっと引っかかっていた。
 異物感は泡沫のように消えてしまうのだろうと思っていたが……決してそうではなく。
 正体も不確かなそれは虚ろに脳裏に浮かんでは俺の意識を捕らえていた。
 しかし、視線の端に触れたものを見た時、それは唐突に氷解した。
 それは幼い日の欠片。幼馴染と一緒に描いた……稚拙としか言えない一枚の絵。
「ああ、そうか」
 難しくも無い。わかってしまえばその答えはとても簡単。
 自分の事として受け留めていないからこそ、それは異物なのだった。
 ……そうだ、俺は……

 未だ静けさを湛えた朝の教室。そこには普段は見慣れない男の姿が在った。
 一夜を経て、冷静さを得たか。あるいは、ようやく気付くに至ったのか。
 真剣な面持ちで、女の元へと向かう。その女は……白、だな。
 渋みというよりはまだ甘味の方が強い。しかし芯というべきしたたかさも持ち合わせているようだ。
 泣き腫らしたであろう目蓋のことなど素振りにも出さずに、気丈に男へと笑みかけている。
「……言うなれば、二重螺旋。互いに向かい合ったまま旋回を続け、螺旋を描いている」
 それは己の尻尾を追う犬のようなものだ。遺伝子などという高尚なものではない。
 頭と尾が同じベクトルで動き続ける。それ故に――
「故に、決して交わらない。それが以前のお前達だった」
 どちらも同じものである事に気が付く利口さがあれば、そんな過ちは犯さずに済む。
 男よ、まだまだだ。お前にはまだまだ足りないものが沢山ある。
 だが、気付けた事は悪い事じゃない。当然、確かな一歩だ。
 注ぐには心許ない杯だが、欲張らなければ問題ない。ゆっくりと味わっていけば良い。
 だから我は祝杯を揚げようじゃないか。友の為に、今こそ本物のワインをこの杯へと注いで。
 この物語は……相思であったのに相愛とならなかった、我が友人達のスパイラル。
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○後書き
それぞれ螺旋っぽいものをイメージしてありました。
長野 底の見えない螺旋階段
金谷 ばね
白沢 ワインオープナー
倉持 寄り合わせた糸

最初は紀伊って名前で、4人の中で浮くかと思って長野に変更した。
……なぜか浮くと思ったんだ。字だとそんなに大差ないはずなのに。
その時点では深い意味は無かったのだが、長野県も葡萄の産地だったという偶然。

ぶっちゃけ白沢あたりが全体の印象食ったよねw
今回はいろいろ比喩とかの関係に含みを持たせてますねー。白沢のお陰です。
白沢みたいなキャラクターが居ると全体が狂います。やったね!
まさかこいつがラストを締めるとは夢にも思わなかった!
ワイン等について間違いがありましたらご指摘お願いします。
多少は調べたつもりですが嗜まないもので。
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