1/伊藤孝晴の場合

 鮨詰めの電車の中、辛うじて座席を確保できた私は読んでいた本を閉じた。
 それは根源的な恐怖を煽る作品で、年甲斐も無く読み入ってしまっている。
 もともとこういう作品は好んでいたが、電車の中でまで読んだ本というのは実を言うと少なかった。
 そのあまりの熱心さのためか、半月ほどかけて少しずつ読もうと思っていたはずが、買って一週間と経たずに読み終えてしまった。
 駅への到着を告げるアナウンスが流れる。それは私が降りるべき駅名だった。
 閉じた本を鞄に仕舞う。そうして私もまた電車から流れ出る人混みの一部となった。

 人のひしめく駅から出、一息吐く。
 様変わりしたな、と思う。少なくともこの街は、以前と比べて大きく変化していた。
 気を抜いていると、高い建物と狭い道が放つ圧迫感に押し潰されそうだった。
 確かに建物を上に伸ばすのなら、その空間はより上手く活用できるといえる。合理的だ。
 しかし利便性と引き換えに、置き去りにしてしまったものがあるように感じる。
 今と比べて不便だった頃、この街には活気といおうか、不思議な期待感が満ち溢れていた。
 それがどうだろう。今の沼沢市には諦めや疲れが見て取れるように思える。
 これが一体何を意味するのか、そんな事は判らない。
 ただ、漠然とした不安はひしひしと感じるのである。

 夕食を終えて一息吐き、パソコンのモニターへと向かう。
 私にも妻や娘が居たのだが、娘は嫁ぎ家を出、妻には先立たれた。
 そのため、吐いた溜息はただほんの少しの残響を残して掻き消えた。
 読み終えた本について調べようと、検索エンジンを開く。
 ……検索する対象は一つしかない。この本にはタイトル以外の情報が無かった。
 本文に表紙を申し訳程度に付けたシンプルな装丁で、出版元や著者の記述なども見当たらない。
 表紙は厚くざらついた黒一色に白く刻まれた蛇と馬の、紅い眼が印象的な絵だった。
 このあまりに特異な容貌が、私には気になって仕方が無かったのだった。
 その書名を入れて検索すると、ただ一件だけヒットがあった。
 ……一件。これまた珍しい。大概は全然関係の無い記事まで拾ってしまうものだが。
 訝しく思いながらもそのサイトを開く。
 そこは、作者の筆と思しき幾つかの文章が載せられたサイトだった。
 他に何も載っては居ないところを見ると、著書の紹介をするような一般的なサイトでないのは明らかだった。
 一応一通り目を通し、その後も作中の文章等をキーワードに検索してみたが……結局その本については何も判らなかった。


 翌日、出勤する時から、私は既に違和感を感じていた。
 何だか普段より周囲のものがが高く大きくなったような、私自身が小さくなったかのような感覚。
 それはひどく強い存在感を持って、私を圧していた。
 仕事を始めても払拭される事はなく、次第に吐き気が襲ってきた。
「っ…………」
 手洗いの蛇口から出る水で、顔を洗う。願わくば全ての不快感を洗い流せるように。
 一通り落ち着き、水気を切りつつ鏡を見た時。強烈な目眩がした。
 鏡を通した世界が歪んでいるように感じた。こめかみが鈍く痛む。
 疲れているのかもしれない。その中夜を更かしネットサーフィンに勤しんだのだ、当然の結果か。
 今日は仕事を早めに切り上げ、ゆっくりと眠りたいと切に願った。

 ようやく会社を出た頃には、既に七時を回っていた。
 結局定時上がりとはいかなかったが、この時世では贅沢も言ってられない、と思い直す事にした。
 貫徹とまではいかなかったのだ、早く帰って今日は休もう。
 思いつつ乗り込んだ電車の揺れが、ひどく体に堪えた。
 流れ行く景色も、人の流れも、今の私にはただただ悪寒を催させた。
 歩き慣れた帰路でさえ、異様な圧迫感と不気味さを持って私に迫り来る。
 家に着くと私は、着替える事もせず布団に倒れ伏したのだった。


 明けた朝、鏡の中の私は自分でも判るほどに生気の抜けた顔をしていた。
 それでも出ねばならない、贅沢を言ってはいられないと確認したばかりだろうと自分を鼓舞する。
 酷い景色、酷い電車、酷い流れに乗り、殆ど気力で会社に辿り着く。
「伊藤さん、大丈夫ですか?」
 廊下ですれ違った同僚の子に、開口一番気遣われた。やはり、酷い顔をしているらしい。
「大丈夫、大丈夫。私は大丈夫だ」
「どう見ても大丈夫じゃないです……少しいらして下さい」
 手首を掴まれ、半ば引きずられて行く。どうやら私は、か細い彼女に抵抗する力すら失っていた。
「部長! 伊藤さんを見て頂けますか」
 書類に目を通していた部長は私を見ると、あんぐりと口を開けて眉をひそめた。
「伊藤君……君、何て顔をしているんだ。ちゃんと養生しているのかね……ああ良い答えなくて良い。働かせる訳にはいかない顔をしている。今日は適当な部屋を使って休んでくれ」
 申し訳なく思ったが、ここで辞退しようとしても無意味な事を悟り、有り難く受け入れる事にした。

 しばし休養を取り、部長に挨拶をし会社を出た。
 私の会社の定時よりも少し早い、四時と四分の三。空は朱く染まりかけていた。
 足音が二重にも三重にも響く黄昏の中、私が振り向く事も無く……それは訪れた。
 妙に静かな世界、音も無く忍び寄る感覚。
「ぐうっ……何だお前、は……」
 応える声はない。返答の代わりに私の首はより強く締め上げられていく。
 反撃しようとした私の腕は、虚しく空を切った。
 首は締められているのに、そこには誰も居ない……?
 馬鹿な、そんなはずは無い。私の命を奪おうと首に手をかけている者が確かにいるはずだ。
 首を襲う圧迫感。遠ざかっていく現実という場所。
 私の抵抗する力が緩んだ瞬間、ごきりと鈍い音が聞こえた気がした――
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○あとがき
予告してほっとく宣言した「喰暗」の一部です。
どのくらい一部かって言うと、
・0/ある『会社』での一枚
・1/伊藤孝晴の場合
・2/飯山梨緒の場合
・3/原田雅樹の場合
・4/岸枝文彦の場合
・終/事の真相
↑の6つのうちの1つってくらい一部です。SS集みたいな感じなのです。
ショートにも程はありますが。急転させた後じわりじわり書くべきが飛ばし飛ばしにしたせいです。
いきなりそこに飛ぶの……「紆余曲折」ってどこいったの? みたいな。
1、2、3はぶっちゃけ真相にあまり絡まな……ゲフンゲフン。
0、4、終はいわゆるネタばらしなんだかサスペンスから離れます。
そんなわけでとりあえず申し訳程度にアップしようかと ←腐った心構え
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